2017年10月8日日曜日

ビタミン×戦争×森鴎外

2017.06.29放映
フランケンシュタインの誘惑〜科学史 闇の事件簿〜

森鴎外 森林太郎
史上最年少で東大医学部予科入学。陸軍軍医に。
その頃陸軍海軍共に脚気が問題に。
当時は炭水化物タンパク質脂質が大事まではわかってたが、ビタミンは未発見。
白米のビタミンB1不足が脚気に繋がってるとは誰も考えなかった。
また東大医学部に来てたドイツのコッホ。細菌学が隆盛。炭疽菌、結核菌などが続々と発見されてた。病気の原因は細菌にあるのだという考え方。脚気細菌説となってしまう。だがそれらしい細菌は見つからない。陸軍では引き続き白米を。

一方海軍。高木兼寛、薩摩藩出身の軍医。明治8年(1875年)、当時の海軍病院学舎(後の海軍軍医学校)教官のイギリス海軍軍医アンダーソンに認められ、彼の母校聖トーマス病院医学校(英語版)(現キングス・カレッジ・ロンドン)に留学。在学中に最優秀学生の表彰を受けると共に、英国外科医・内科医・産科医の資格と英国医学校の外科学教授資格を取得し明治13年(1880年)帰国。
このイギリス留学時代に疫学を習得。当時イギリスでコレラが流行。原因はわからない。だが罹患者をマッピングすると井戸の近くで多いことが判明。原因はわからないが、今事実がそう言ってるのなら井戸の近くから遠ざければ病は防げる。
これが疫学の考え方。対症療法。
天然痘にしても原因はわかってなかったがシュタイナー?ゲイナー?がうまいこと治療したように。

そこで高木は、このEBMな手法に基づき、タンパク質が原因だと仮定して、明治17年(1884年)の軍艦「筑波」による航海実験(以前の軍艦と同じ航路をたどるので比較対照実験になってる)。
白米でなく、洋食を食べる。結果、ハワイ到着時の脚気患者ゼロ。洋食はまだなじみがないので麦飯を海軍では支給することに。その後海軍での脚気患者は激減。
1884年(明治17年)の導入により1883年の23.1%の発症率を2年で1%未満に激減させた。
明治18年(1885年)3月28日、高木は『大日本私立衛生会雑誌』に自説を発表。
欧米においては高木の業績に対する評価はきわめて高く、フィラデルフィア医科大学、コロンビア大学、ダラム大学から名誉学位を授与されており、ビタミン、栄養学に関する著名な書物の多くで高木の業績が詳しく紹介されている。南極大陸の南緯65度33分・西経64度14分に高木岬があるが、これは彼の名にちなんでイギリスが付けた地名である。海外での脚気業績に対する高木の評価は高い。「独創を尊び成果を重んする西洋医学からみると、高木の『食物改良による脚気の撲滅』は、発想の独自性と先見性、成果のすばらしさから、まさしく画期的な業績であった。ビタミンが広く知られた後には、さらにその先見性が高く評価され、ビタミンの先覚者と位置づけられている。」


陸軍はおもしろくない。エリート意識もあったし。ドイツ医学というか東大医学部の学閥もあったし。
麦飯と脚気改善の相関関係は(ドイツ医学的に)証明されていなかったため、科学的根拠がないとして否定的な態度。


そこで筋道の違う実験を実施。兵食試験。白米、麦飯、洋食を食べた兵士の食事量と糞量を計測。白米群が最もエネルギーを効率的に取得できている、だから白米はすごい。

だが当然ながら脚気患者は減らない。むしろ日清戦争では戦死者よりも脚気での死亡者が多かった。一方海軍では脚気患者は数名、しかも軽傷。日露戦争でも同様。
日露戦争での多数の脚気死亡者により軍医トップはクビ。代わりに森が1907年(明治40年)10月、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権をもつ軍医のトップ)に就任した。


東大農学部の鈴木梅太郎。水と土と空気からなぜ農作物が育つのか不思議でそれを解明したくて農学部へ。
1910年(明治43年)に動物を白米で飼育すると脚気様の症状が出るが、米糠、麦、玄米を与えると快復することを報告。翌年、糠中の有効成分を濃縮しオリザニンとして販売されたが、医界は受け入れなかった。医学部に話すものの、農学部に言われたくはないと、脚気栄養欠乏説は黙殺される。




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